昭和五十六年六月十九日 朝の御理解


御理解第七十八節「神の気感に適うた氏子が少ない。身代と人間と健康とが揃うて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の気感に適うたのじゃ。神の気感に適わぬと身代もあり力もあるが壮健にない。壮健で賢うても身代をみたす事があり又、大切な者が死んで身代を残して子孫を断絶してしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。信心して神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」


 私は思うのですけれども、本気で神の気感に適う氏子にお取り立て下さい。どうぞ、今日一日神様のお心に添ういわゆる、神の気感に適う一日でありますようにと、本気で祈り本気で願う人があったらもう合楽では大変な信心が進むでしょう。お徳を受ける事でしょう。私はそうだと思うんですね。沢山な信者がおります。
 或る時の二代金光様四神様の御時代にそれこそ御霊地を埋め尽くすような御参拝者があっておった。そん時に或る先生が四神様に「大した事でございますなあ、金光様の大祭と云やぁこれだけ全国から沢山の人が集まってまいります」というてまあ御挨拶を申し上げた時に、四神様が仰せられたそうです。「この中に真の信心が分かりたいという氏子がいく人居ろうかのう」とおっしゃったそうです。私は今日それを思うです。のっけにおっしゃっておられる、神の気感に適うた氏子が少ないと仰せられる。ね、ですから、本当に神の気感に適うた氏子にお取り立て下さい、本気でそうなりたい。本気で真の信心を身につけたいと願う人があって、合楽に御縁を頂いたらもう、それこそ真の信心が分かる力が出来るお徳を受ける事だろうと思います。
 ところが今言う、これだけ沢山お参りをしてくるけれども、その事だけを一心に願う氏子が少ないと言えるのじゃないでしょうか。先ずはね、お互いが本当に今日も一日神様の気感に適うた一日でありますようにという願いが、私共の願い初めでなからなきゃならんと思うです。一日のそして一日終わったら本気で願うておりながら、一日を振り返ってみると、あそこもお粗末であっただろう、御無礼であっただろうと思われるところを、心からお詫びをさしてもらう日々である。
 いうなら、おかげを頂かせてもろうたならね、合楽ではその神の気感に適うた天地の芯と交流出来れる手立てを説くのですからね。それが神の気感に適わないと交流出来んのです。まあ言うならば、天地が水ならば私共も水に本気になってしまわねばじゃあないけれども、なろうと本気で努めなければ側にも寄れない。そんな感じですよね。
 例えて分かりやすく申しますとね、水と油では一緒になれません。なりたいと思うても。 だから、本気で今日も一日気感に適うた一日でありますようにと日々の御理解を基にして、いわゆる信心生活が出来たら素晴らしい信心の、いわゆる奥がへと進んで行く事が出来るでしょう。勿論それに伴うところのおかげも素晴らしい事でしょう。
 安心と喜びの生活約束される事になるのですけれども、神様信心とはただおかげを頂く事が強くなって、気感に適うた神様のお心に適うた私になろうというような願いをする者がまあごく少ないと言う。それは沢山な、例えばお道の信者の中でも沢山ありましょう。例えば、ここに今修行しよります四国から来てる泰という先生が居ります。本当に真の信心が分かりたい、四国という所は非常にやっぱ遍照金剛で固めた県ですから所ですからね。四国という所は、八十八ヶ所があるといったような。ですから非常に表行がね、それこそ人がたまがるというか、普通で出来ないような表行が盛んな所だそうです。だから、金光教も表行せんなら、人は集まって来んといったような大変難しい土地柄だそうですけれども、泰先生いろいろと考えた。さまざまな修行もしてみた。たまたま私共の大阪講演のそれを聞かせてもろうてね、初めていうなら、信心の眼が開けた。これだと。そん為には一年間泉尾の教会でも一年半ですか修行した。そしてだんだん分からせて頂いた事は、あそこで私がお話しをしたお話しが大阪教務所からでしたでしょうか、あちらの青年会から御本になって全教の各教会に配られたんです。それを改めて読み直して改めて信心の素晴らしさが分かった。これだ。なんとかして合楽に御縁を頂きたいもんだという、或る日、外へ出たげなりゃ合楽行きという大きなポスターがかかっとった。それを写真に写してこの頃持って来ておりましたがね。もうそのはっきりと大きなポスターに大きく同じ合楽行き、それは横に読むごたるふうに書いちゃったらしいですけれどもね。先生はそれを縦でしたかね。会合 タテに読んで合楽会行、横に読んだら丁度合楽行きという事になった。         行楽 弁当屋の看板
 もう腹が決まった。その間にもさまざまな不思議な事があった。そこで言うならば、意を決してまあ合楽御縁を頂いた。どこでもここでも真の信心が分かりたいと思うて修行させて頂いたけれども、得られなかった。けれども合楽では、だから無期限それこそ神様のお許しを頂く迄、まあ今日の御理解で言うなら、いうなら神の気感に適うた氏子にならせてもらおうと、又ならせて頂いていうなら合楽理念のマスターを身につけてという事にまあ焦点を置いて信心を致しますから、そりゃあやっぱ違います。本気でその事だけを願うですからね。その事に取り組むのです。合楽ではただこうして、合楽に縁を頂いたという事がまあこれは大変な御神意のある事でございましょうけれども、そこにただおかげを頂く為に合楽に御縁を頂いたのではなくて、神の気感に適うた氏子にお育て下さる事の為に、合楽に御縁を頂いた。そういう例えば、願いをもっている人は教団の中でもいくらもあるかもしれんけれども、なかなか、ならどういう生き方になったら真の信心というか神の気感に適うた信心が出来るであろうかともう、日夜思うたり願うたりしておる人はいくらもありましょうけれども、やっぱし縁を頂かなければ、その縁が熟しなければなかなか出来んのです。皆さんの場合はこうしてまあ直接合楽と御縁を頂かれたのですから、願いの第一、兎に角神の気感に適う、これはね、もうあの人は神様んごたる人、神様の人、人間が真面目で実意でというのではないのです。神の気感に適うたというのはね、やっぱり根性もしっかりしとらねば出来ませんね。神の気感、いうなら神の教えを頂き行じ抜こうとする姿勢ね、人が良いからというて、いうならば神様のような人じゃというても、難儀が続いている人があろうがとおっしゃるようにね。私共はさまざまな、いうならば神様の心とは似も似つかぬものを、沢山持っておりましょうけれども、一たび合楽に心を向けて、いわゆる神の気感に適うた氏子になりたいと願うとその人その人にこういう有り難い、こういう心がけにならせて頂くと、それこそ容易う楽しゅう、いうならば神の気感に適う手立てが説かれるのであります。だからそこの体得が出来てくると本当に信心が楽しゅうなって有り難うなってくる訳です。
 最後にありますように神の大恩を知らぬから互い違いになるというように、本当の意味に於いての神の大恩を感じる事が出来て分かるようになったなら、それにいうならば、報い奉らねばおられないという信心、御神恩に報謝し奉ろうとする姿勢も自ずと出来てくる。先ずは神の気感に適う氏子にお取り立て頂きたい。ね、そりゃあ本当に神様の手にも足にもならせて頂いて、本当に神様に喜んで頂くような御用にも立ちたい。お役に立ちたいの一念を、例えば燃やしておりましても此の頃から電話がかかって来た。或る呉服をしておられるお商売の方です。手形が月末までにこれこれの事をどうぞと、もう親先生私は本当に一千万は一億円でもお供えしたい思いで一杯でございますち言う。これは本当にそうです。だからどうでも、おかげ頂かせて下さいと、いかにも神の心に適うたごたるばってん、神様はね、そこで一億円欲しいてんなんてん言いなさる神様じゃ絶対ないです。この神様ばっかりはね。それこそ神の気感に適うた氏子に取り立てを頂いて神恩が分かりその報謝の心が一千万が一億円にもと大きくなっていく。それを願われるのであってね。沢山お供えしようというたら、神様はおかげ下さるといったような、そんなあまっちょろい神様ではないという事。ようそんな人がありますよ。お役に立ちたいお役に立ちたいだからどうぞおかげ頂かせて下さい。ね、そりゃおかげ頂くなら、誰でんおかげ頂ける。
 それよりも先ずです、いうならば神の気感に適うた氏子にお取り立て下さいという願いを先にするような信心、そして、本気でなら合楽理念に基づく日々を私共が実験実証させて頂いてね、神様への報恩を神恩報謝の心が大きくなってくる。広くなってくるね。
 そこに私は人の真似の出来んような御用も出来るようなおかげを神様は頂かせて下さる。そういうおかげを頂いたら、それこそ最後にある子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげが受けられるという、先ずはなら先ず神の気感に適うた氏子が神恩をいよいよ分かり、その神恩に応え奉ろうとする、いうならば姿勢、構えが出来て限りなくここの精進に取り組んで行って、初めて子孫も続きとかね、身代も出来とかいうおかげにつながるというふうに思います。  どうぞ。